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神戸地方裁判所 平成2年(ワ)1143号 判決 1992年11月19日

原告

箱崎正光

被告

赤松克麿

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一原告の請求

被告は、原告に対し、金一八八万一七一〇円及び内金一七三万一七一〇円に対する平成元年六月一四日(本件不法行為日の翌日)から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

第二事案の概要

本件は、交通事故により受傷した原告が被告との間で成立した示談契約の瑕疵を主張してその効力を争い、被告に対し損害賠償を求めたものである。

一  争いのない事実など

1(本件事故の発生)

被告は、平成元年六月一三日午後六時五〇分頃、神戸市中央区中町通二丁目二番一号先の交差点内において、普通乗用自動車を運転して、一時停止ののち、北方から西方に向かつて後退したところ、西詰の横断歩道を南方から北方に向かつて横断歩行中の原告に対し車両後部を衝突させ、原告を路上に転倒させた(右のうち、事故態様については乙第八号証及び被告本人の供述によつてこれを認める。)。

2(原告の受傷と治療経過)

原告は、本件事故の結果、神吉外科病院において、頸椎捻挫、腰部捻挫、頭部外証Ⅱ型、右膝間節損傷(側部靱帯損傷)、右大腿筋損傷、右肩鎖関節損傷及び胸腹部挫傷等の傷害を負つたとの診断を受け(乙第二、第三号証及び証人神吉英雄医師の証言)、同年六月一三日から同月一六日までの間同病院に通院したのち、翌一七日から同年八月二五日までの間入院して治療を受けた。

そして、原告は、同月三一日、神吉医師から、頸椎神経根症状、バレリユー症状、左右下肢のしびれと放散痛、頸椎及び腰椎の運動障害等(以下「神経症状等」と略称する)を残して症状固定となつた旨の診断を受けた(甲第二号証、証人神吉医師の証言)。

なお、原告は、右退院後現在に至るまで、神吉外科病院に通院して治療を受けている(原告本人の供述、証人神吉医師の証言)。

3(被告の責任原因)

被告は、前記車両の運行供用者として、自賠法三条に基づき、本件事故によつて原告が被つた損害を賠償すべき責任がある。

4(本件示談契約の成立とその履行)

原告は、平成元年八月二二日、被告の代理人千代田火災海上保険株式会社の担当者(以下「保険会社担当者」という)との間で、次の内容の示談契約を締結し、これに基づき、これまでに被告から合計一七三万八八四〇円を受領した。

(一)  被告は、原告の平成元年八月三一日までの治療費を負担する。

(二)  被告は、原告に対し、原告の被つた入院雑費、休業損害、慰謝料、その他一切の損害に対して、既払金七三万八八四〇円の他に金一〇〇万円の支払義務のあることを認め、これを送金して支払う。

(三)  原告は、その余の請求を放棄し、かつ、原告と被告との間には、前各項以外になんら債権債務の存在しないことを確認し、原告は被告に対して別途の請求をしないことを確認する。

5(原告の前回事故)

原告は、本件事故に先立ち、昭和五九年一月三一日頃、自動車の助手席に同乗していた際に停車中に追突されるという交通事故(以下「前回事故」という)に遭い、神吉外科病院において外傷性頸部症候群等と診断されたのち、頭部、頸部及び腰部の神経症状等が残つたため、後遺障害として自賠法施行令第一四級に該当するとの認定を受けた。

6(本件事故による後遺障害についての加重非該当)

原告は、本件事故による前記のような神経症状等の後遺障害について、自賠責保険に対し保険金の支払を請求をしたところ、平成二年三月、「加重非該当」として保険金の支払ができない旨の認定を受けた。

二  主たる争点

被告は、原告の本訴請求に対し、本件示談契約の成立とその履行によつて原告主張の損害賠償請求権は放棄ずみで既に消滅している旨主張し、また、後記三の原告主張の損害を争うのに対し、原告は、本件示談契約は、被告の代理人である保険会社担当者の強迫を受けて締結させられたものであり、仮にそうでないとしても、適正な損害賠償額を知らずに締結したものであるから、要素に錯誤があつて無効である旨主張する。

本件示談契約締結の経緯に関する原・被告双方の主張は次のとおりである。

1(原告の主張)

(一)  強迫

保険会社担当者は、原告が神吉外科病院に入院した当初から再三にわたつて入院治療中の原告のもとに押し掛けてきた上、原告に対し、早期退院して示談に応じること、もし示談に応じなければ、今後は治療費も休業補償も一切支払わないし、保険会社の顧問弁護士が原告を相手方として訴訟を提起して徹底的に争うなどと執拗に申し向け、原告を右の支払が打ち切られては今後の生活が逼迫してしまうとの困惑状態に陥らせ、これに乗じて原告との間で本件示談契約を締結したものであるから、本件示談契約は、強迫によつて締結されたものであり、取り消し得べきものである。

したがつて、原告は、被告に対し、平成二年八月一一日の本件訴状の送達をもつて本件示談契約を取り消す旨の意思表示をする。

(二)  錯誤無効

また、原告は、右の経緯の下で、本件事故による傷害の治療について、示談契約締結後もどれくらいの期間が必要であり、治療費としてどれくらいの費用を要するかについて検討する余地のないままに、保険会社担当者の言うとおりに示談契約締結に応じたものであるから、その後の症状の長期化に照らすと、被告から支払を受けるべき適正な損害賠償の額について錯誤があつたというほかなく、本件示談契約は、要素の錯誤があつて無効である。

2(被告の主張)

原告は、平成二年七月二〇日、保険会社担当者に対し、「この病院にいると薬漬けになつて体に良くない。早く退院しようと思うが、今は暑いので八月下旬頃退院する」と述べていたほか、同年八月二二日の本件示談契約締結時には、「あと一〇〇万円くれたら、今後一切文句は言わない。入院は八月末までさせて欲しい」などと述べてみずから示談条件を提示していたのであつて、本件示談契約は、保険会社担当者が右提案を了承するという形で円満に締結されたものであり、原告の強迫及び錯誤の主張はいずれも全く理由がない。

三  原告主張の損害 合計三四七万〇五五〇円

1  休業損害(月収二八万六一五三円として七〇日分) 六六万七六六〇円

2  入院雑費(一日当たり一二〇〇円の割合) 八万四〇〇〇円

3  傷害慰謝料 一五〇万円

4  逸失利益 四六万八八九〇円

(三年間にわたつて五パーセントの労働能力喪失)

5  後遺障害による慰謝料 七五万円

第三当裁判所の判断

一  本件示談契約の契約締結経緯について

前記判示の事実と証拠(乙第二、第三号証、第九号証の一ないし三、証人神吉医師、同畠中康及び同青木信生の各証言、原告及び被告本人の各供述並びに弁論の全趣旨)を総合すると、次の各事実を認定することができ、この認定に反する証拠はない。

1  原告は、平成二年六月一三日の本件事故当日、神吉外科病院に通院して診察と治療を受け、神吉医師も入院治療の必要を認めたものの、部屋が空いていなかつたため、原告の入院は同月一七日になつた。

2  千代田火災海上保険株式会社神戸支店の損害査定業務を担当していた畠中康は、本件事故の発生を知つて、株式会社損害保険リサーチに対し原告の被害状況等の調査を依頼し、同社の清水信生は、同月二四日、神吉外科病院に入院中の原告を訪ね、事故状況や原告の勤務先と給与等を確認し、今後の保険金の支払等について話し合つた。

3  その後、畠中は、原告が入院中に外出していたことを知り、かねてから神吉外科病院では治療が長期化しがちであるとの感じを抱いていたため、清水に対しさらに原告の傷害の治療状況等に関する調査を行うよう依頼したところ、清水は、同年七月一二日、同病院を訪れて神吉医師に会つたところ、同医師から、「原告の現在の症状によると、今後一箇月以内程度の入院治療が必要であり、症状改善の効果がある」との見通しを聞いた。また、その際、清水は原告にも会つたところ、原告は、「入院治療によつて症状が改善しているのでもうしばらく入院するが、四箇月以上の長期にならないよう努力したい。休業補償を全額支払つてくれるのであれば、こちらも協力して早期に退院することにするし、休業補償期間は三箇月程度でも良いが、半額しか支払わないのであれば協力はできない。長期の治療となれば、健康保険に切り替える」などと申し述べた。

4  同月二〇日、畠中と清水は、神吉外科病院に原告を訪ね、原告の退院時期や示談時期等について話し合つたところ、原告は、「この病院にいると薬漬けになるから早く退院したい。八月半ばには退院したい」と述べたが、畠中らは、「前回事故の後遺障害の件があるので、原告の満足のいくような額は支払われない。満足するだけの額を請求するならば、裁判で争おう」と述べ、その際、原告から示談条件の提示を求められたものの、これについては退院の見込みの立つ一箇月後に改めて話し合うということになつた。

5  そして、同年八月二二日、畠中と清水は、再び神吉外科病院に原告を訪ね、付近の喫茶店において原告と協議したところ、原告が同月二五日に退院することを前提に、これまでの休業補償等の既払金七三万八八四〇円のほかに、保険会社側としては同病院における同月末までの治療費を負担した上、同月までの休業補償及び慰謝料等として金八〇万円を支払つて最終的に解決することを提案した。これに対し、原告は、右八〇万円は低いとして、「後で迷惑をかけない。後腐れのないように、切りの良い数字にしてくれ」などと言つて一〇〇万円の支払を求めたため、畠中らは、やむを得ないものとしてこれを了承し、同月二二日、原告との間で前記のような内容の本件示談契約を締結し、示談書(乙第一号証)を作成した。

6  その際、原告は、将来、健康になればそれでよいと考えて余り先のことまでは考えなかつたものの、症状が改善されずに病院で治療を受けるようになつた場合のことについては、畠中らに対し、本件事故による後遺障害として自賠責保険に対し保険金請求を行うことにすると述べた。

7  同日頃の原告の症状は、入院してから約二箇月が経つていたものの、依然頭部、頸部及び腰部の神経症状と右膝関節の痛み等を訴えていた状態にあり、原告は、前記のように示談をし同月二五日に退院することについて、神吉医師と相談したことは一度もなく、退院直前にこれを告げただけであり、神吉医師としては、現在、その頃の原告の症状からすると、なお二週間程度の入院治療の継続が必要であつたように考えている。

8  その後、原告は、退院後に症状が悪化したため、再び神吉外科病院に通院して点滴等の治療を受けるようになり、現在までこれを続けているが、右膝については早期に良くなつたものの、依然、前記のような神経症状等を訴えている。

9  なお、原告は、前記のとおり本件事故による後遺障害の認定が「加重非該当」とされたため、保険会社を訪れてこの認定について不服を述べるとともに、本件示談契約について納得できない旨述べるようになつた(なお、前回事故の際には、原告は、自賠責保険から後遺障害として第一四級一〇号に該当する旨の認定を受け、保険金の支払を受けた。)。

二  本件示談契約の効力について

そこで、原告の主張について検討する。

1  強迫

前記認定の事実関係に基づいて考えるに、前記認定のような原告と畠中、清水のやりとり及びその間の経過等に照らすと、畠中らが本件示談契約締結に当たり原告の窮状に乗じて原告を脅し畏怖させた事実を認めることはできないものといわなければならず、本件全証拠を仔細に検討してみても、これを認めるに足りるだけの証拠は見当たらない。

したがつて、原告の強迫に関する主張は理由がない。

2  錯誤無効

一般に、交通事故による損害賠償の示談において、被害者が一定額の支払を受けることで満足し、その余の賠償請求権を放棄したときは、被害者は、示談当時にそれ以上の損害が存在したとしても、あるいはそれ以上の損害が事後に生じたとしても、示談額を上回る損害については後日請求し得ないものと解すべきである。

「それゆえ、被害者において示談契約の締結に当たり要素の錯誤があつたといい得るためには、少なくとも、その後に示談当時には予想できなかつたような後遺障害が生じたり、症状が著しく悪化したりしたため、全損害額の正確な把握を誤り、そのために本来締結すべきではなかつたにもかかわらず示談契約を締結してしまったと認められることが必要であると解すべきである」(そのように解さなければ、症状の予後の状況を適確に判断することには常に困難を伴う以上、多少の見込み違いが生じたということだけで錯誤があつたものとすると、示談契約を締結する意味が失われてしまい、不当な結果を招くことになる。)。

そこで、右のような観点から本件について検討するに、たしかに、前記認定の事実関係によると、本件示談契約は、本件事故から約二箇月後においていまだ入院治療中の原告との間で締結されたものであり、その際、原告の最終的な退院時期とその後の治療見込みについて神吉医師に対し意見が求められたことはなく、また、原告としては、その後に症状が改善されなかつたときには、本件示談契約による金員以外に、自賠責保険に対し後遺障害についての保険金請求をすればその支給を受け得る余地があると考えていたのである。

しかしながら、前記認定のような本件示談契約締結過程における原告の発言内容によると、原告は、自己の症状を退院時期とからめながら自分なりに十分検討していたことが認められるし、原告が本件示談契約締結後現在に至るまでなおも訴えている症状は退院当時の神経症状等と同一であることは先に認定したところである。さらに、証拠(甲第五ないし第二〇号証、証人神吉医師及び同清水の証言、原告本人の供述)によると、原告は、前回事故の結果、本件事故の場合とかなり類似した神経症状、バレリユー症状等を訴え、神吉外科病院において、昭和五九年二月三日から症状固定とされた昭和六一年一月二七日までの間にわたつて通院して治療を受け(実日数二六四日)、症状固定後も約一年間にわたり同病院に通院して治療を受けるという既往歴を有していたこと、そして、原告との対応に当たつた清水は、原告について、保険会社との対応に手慣れているとの感じを持つたことが認められるのである。

これらの事情を総合して考えると、本件示談契約締結当時、原告においては、多少の見込み違いがあつたとしても、その当時に存在していた前記のような神経症状等が前回事故の場合と同様その後も引き続き存続するかもしれないと予想し得たものと推認するに難くないところであつて、それゆえ、その後になおも存続する同様の症状が本件示談契約締結当時原告において予想し得なかつたようなものであるとは認められないといわざるを得ない。

さらに、前記の認定、説示に照らすと、これらの症状が将来長期化した場合のことについては、原告において自賠責保険から保険金の支払を得られるであろうと考えていたけれども、他方で、既に畠中らから前回事故による後遺障害の件があるために満足のいくような支払がされないとの説明を受けていたのであるから、自賠責保険からの保険金の支払が難しいかもしれないことは認識し得たところであり、また、このことが本件示談契約締結の前提条件になつていたものとまでは到底認められないのであつて、この点から原告において錯誤があつたとすることはできない。

そして、本件示談契約において、治療費を被告負担としたほかに、被告から支払われることとされた合計一七三万八八四〇円の金額の妥当性について検討してみるに、原告主張の弁護士費用を除く損害額(三四七万〇五五〇円)が仮に本訴においてそのとおり減額されずに認容されると仮定してみた場合(ただし、そのうち傷害慰謝料については症状固定日までの入通院期間に照らすと高額に過ぎると考えられる。)、原告の本件事故による神経症状等の存続については、前記認定のような前回事故による後遺障害との類似性、時期の近接性、前回事故の際の治療の長期性等にかんがみると、前回事故による後遺障害が既往症として寄与していることは否定できないところであつて、少なくとも四割程度はこれに寄与したものとして原告の損害額から控除すべきものといわなければならないから、これによると、原告の主張にかかる損害額は結局約二〇八万円余となり、示談による紛争の早期解決という趣旨から対比して考えてみたとき、前記示談額の一七三万八八四円という金額は不適性な額であつたとすることはできないというべきである。

「以上のところからすると、原告において、本件示談契約締結当時には予想できなかったような後遺障害が生じたり症状が著しく悪化したりしたため、全損害額の正確な把握を誤り、そのために本来締結すべきではない示談契約を締結したものとはいえないことに帰着するから、原告の錯誤に関する主張は採用しない。」

3  なお、原告の錯誤無効の主張に関しては、原告の本件示談契約締結後の症状の長期化について、それが本件示談契約の目的となつた損害とは別の損害であるという趣旨を含むものと解し得ないではないので、この点についても検討しておく。

交通事故による全損害を正確に把握し難い状況の下において、早急に少額の賠償金をもつて満足する旨の示談がされた場合においては、右示談によつて被害者が放棄した損害賠償請求権は、示談当時に予想していた損害についてのもののみと解すべきであつて、その当時予想できなかつた後遺症等についてまで賠償請求権を放棄したものと解するのは相当でないというべきであるが(最高裁判所第二小法廷昭和四三年三月一五日判決民集二二巻三号五八七頁参照)、本件においては、先に認定、説示したところからすると、原告において全損害を把握し難い状況にあつたものとも、予想外の症状悪化があつたものとも認められず、また、示談額が小額に過ぎるものとも認められないのであつて、右説示にかかる場合に該当するとはいえないといわざるを得ないから、この点から検討してみても、結局、原告の主張は理由がないことになる。

4  以上によると、原告の本件事故による損害賠償請求権は、本件示談契約の成立とその履行によつて既に放棄されたものといわなければならず、本訴において、被告に対しこれを請求することはできないものである。

三  よつて、原告の本訴請求は理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 安浪亮介)

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